
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に聞く 「目指したい20年後の教育」
第3回:非認知能力を育てるハウツー本には意味がない?
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に 「目指したい20年後の教育」を伺いました。
大人の顔色を見て勉強するようになる子どもたち
ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)学校では今後、子どもたちにどのような教育をしていくと良いのでしょうか。
梶取弘昌氏(以下、敬称略):私自身は昨年で校長の職を退いて、地元で畑を借りて野菜を作ったり、生徒と一緒に稲作りをしたりしていますが、土に触れていると、分かってくることがあります。
例えば、畑で作る野菜の出来具合はどうやって土壌を作るか、いつ種をまくかで決まります。畑のベテランたちは「手を掛けたら掛けただけ育つよ」と教えてくれますが、これは肥料をたくさんやればいいということではなく、ちゃんと耕して育てるという意味です。
「大根十耕」は、ダイコンをよく育てるためにはは、土を深く、ふかふかになるように耕すという意味で、しっかり耕して準備して、適切な時期に種を蒔いてあげれば勝手に育つんです。このことは、子どもたちの教育に通じると感じました。
──手を掛けたらその分育つということでしょうか。
梶取:適切に手を掛けるという意味ですね。
野菜は肥料をあげ過ぎたら根腐れしてしまうことがありますし、野菜によっては水さえ必要ありません。それぞれ必要なものが全部違うのです。同様に子どもも、その子にとって必要なものを理解しないままに「この宿題をやっておきなさい」と一律にやらせていると、子どもたちは大人の顔色を見て「これをやったら先生、点数をくれるの?」という勉強の仕方をするようになる。
なおかつ先生たちがそれを評価してしまうと、「やらされている勉強」を高校まで、ひどいと大学まで続けてしまう。すると、自分で考える力がつかなくなるのです。
──なるほど、子どもたちは勉強において大人の顔色を窺ってるのですね。
梶取:大人からどう評価されるかを気にする子は、反動が大きい。特に優等生は注意が必要です。親の言うこと、先生の言うことをよく聞いて、高校の始めくらいまでは成績もトップクラスで優等生だった生徒が、ふと「ぼくはなぜ勉強しているのだろう」と悩むようになる……このタイプが一番怖いのです。
小さい頃から「何をしてるんだ」と叱られるような悪さをする子のほうが、実は安心なんですよ(笑)。
非認知能力を育てるハウツー本には意味がない?
──これだけ少子化と言われ、しかも個性の大切さが唱えられてきたのに、親になるとレールを外れることを怖がるようになります。例えば、授業中に立ち歩くのは絶対「悪」のようにとらえられてしまうなど、「悪」を決めたがる傾向があるようにも思います。
梶取:小学校低学年であれば、黙って45分座っていられること自体、私は不思議に思います(笑)。ただ「おとなしくしていなさい」というのは無理がありますし、立ち歩くことにしても、もしかしたら、教え方のほうに工夫が必要なのかもしれませんよね。
子どもが成長に伴い人の話を聴く力を身に付けていくことは大切ですが、そこだけに集中すると、「見てくれの行儀の良さ」ばかりに注目が集まり、そのためのハウツーだけが広がっていく。それでは意味がありません。
最近では「非認知能力」までハウツー本が出だしましたが、本来は定型的に育めるものではないはずです。
──そうなのですね。つい、ハウツー本を頼りたくなりますが……。
梶取:どの勉強でも同じですが、一つの方法論が、全ての子に合うとは言えないですよね。本来、人はさまざまな場面で「これは良い」「これは悪い」という基準を大人から聞きながら、育つものです。
非認知能力は一般的には自制心や意欲、忍耐力などを指しますが、本来、これらを高めるためだけの授業はあり ません。
すべての授業、部活動、校外活動を通して子どもたちは学び育っていきますし、非認知能力もその中で高まっていきます。子どもたち同士で意見が折り合わなかったらどうやっていこうかといったことでも、自制心や意欲、忍耐力などは育まれるものです。学校だけでなく、家庭や地域など、子どもたちが接する大人たちすべてが子どもを育てているのです。
人と触れ合うことができない人が難しい世の中になる
──ではどのような授業であれば、非認知能力は高められるでしょう。
梶取:ゴールを先生が決めないということは一つ重要ですね。先生たちは子どもたちを一つのレールに乗せたがるけれど、そこで得られるのは先生の達成感でしかありません。それよりはどの授業でも、子どもたちが面白かったかどうか、ワクワクできたかです。
例えば私の専門である音楽でも、小学生にはこれは分からないだろうと狭める必要はないんです。何年生なら四分音符を教えてなどの指導要領に従い過ぎず、子どもたちなりに感じた「面白かった」「何か退屈」といった感想を引き出すほうが大切です。
子どもたちは大人が想定するよりはるかに素晴らしい感性を持っています。ただ表現の仕方が分からないことがあるので、困っていたらそれを教えてあげればいいのです。
──教える側はまだまだ指導要領に従ってしまいそうです。
梶取:指導要領ダメなのではなく、それを絶対視してはいけないということです。そのような柔軟性が教員に求められますし、教員自身が日々進化していかなければいけません。専門知識の高さではなく、子どもにどうやって向き合えるのか。AIが出てくるから仕事がなくなるという議論がありますが、そんなことはありません。通り一遍の事しかできない人、思考が硬直している人はどんな仕事を選んでも先がないでしょう。
医師でさえ、ロボットが手術をするようになれば「名医」も必要なくなってくる。それよりは、例えば末期がん患者とその家族に対して「数値がこうなっているので」などと話をするのではなく、「大変だよね」と声を掛けてあげられるかどうか、一人の人として触れあえるかどうかが問われます。それができれば残るし、できなければ仕事を失うでしょう。これはいろんな職種で同じだと思うんです。
仕事がなくなることを恐れるのではなく、人と触れ合うことができない人が難しい世の中になるということを想定したほうがいいかなと思います。
──人間的魅力のある先生が、求められるようになるのですね。
梶取:そうですね。そうした先生を小学校で増やすには、待遇を大幅にアップするべきだと思います。小学校にこそ大きな予算を付けて、魅力ある先生を採用する。そのうえで先生たちは専門性を高めていくわけです。
ただし先生たちも時間が限られています。現在、教員免許は10年更新で免許を持たない人は教壇に立てませんが、「免許を持たない各道のプ ロ」に教壇に立ってもらうことも今後は必要でしょう。プロが教壇に立つことで、リアルタイムで起きていることが学べるようになるでしょう。
成績表をなくしてしまえばいい
──他にはどのような授業の仕方をしていけばいいでしょう。
梶取:いろいろなやり方がありますが、例えば現在のように、教科で分けることが不自然だなと思っています。
音楽で「浜辺の歌」を取り上げて、「あした浜辺を さまよえば」という歌詞の「あした」はどういう意 味なのかを考えれば国語の勉強になりますし、あるいはあの歌詞の情景を絵に描いてみようとすれば、あの情景には誰がいるのか、いつなのかといったことを考えるようにもなる。音楽だけど国語の要素を取り入れながら学んでいくことで、見えてくる世界が豊かになります。
極端に言えば、私自身は成績表をなくしてしまえばいいと思っています。教員たちは、成績を付けないと子どもたちが勉強しないのではないかと怯えますが、実は束縛から解放すると自由に発想できるようになっていきます。
学校だって、今日は本拠地となるこの学校に来るけれど、火曜日は別の学校に行く。1週間終わったときにあの学校ではこんな経験をしたよといったことが皆で話し合える、面白いですよね。そういう教育になれば、不必要な競争もなくなるし、風通しも良くなる。
今までの教育の概念を変えることになりますが、そこ までしないと、現状は打破できないのかなという気がしています。
プロフィール

梶取弘昌(かじとり・ひろまさ)
1952年東京都出身。1971年武蔵高等学校卒業。東京藝術大学声楽科卒業。1977年武蔵高等学校中学校講師。1988年武蔵高等学校中学校教諭。2006年武蔵高等学校中学教頭。2011年4月武蔵高等学校中学校の13代校長に就任(~2019年3月)。現在は東京私学教育研究所の特別調査研究会『学校づくり研究会』委員長、武蔵高等学校中学校芸術科講師を務める。声楽家としても演奏活動を行っている。専門はドイツリートだが、現在ではポピュラー、ミュージカルなど幅広く演奏している。また楊名時太極拳を学んでいて現在は準師範、師範をめざ して修行中。自宅近くに畑を借り野菜をつくっている。また生徒と一緒に稲作にも挑戦。「土づくり」が作物にとって重要であるように、教育においても「土壌づくり」が最も大切であると感じている。