
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に聞く 「目指したい20年後の教育」
第2回:「英語が話せる=グローバルに対応」ではない
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に 「目指したい20年後の教育」を伺いました。
「ノーベル賞や金メダルを取ること」が目標化した教育の罪
ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)2020年の教育改革に向けて、教育の内容がより「実用性の高い内容になってきている」と聞きます。そのことが子どもたちにどのような影響を与えるとお考えになりますか?
梶取弘昌氏(以下、敬称略):2015年6月8日、当時の文部科学相が全国の国立大学法人に対し、第3期中期目標・中期計画(2016~21年度)の策定にあたって教員養成系や人文・社会科学系の学部・大学院の廃止や転換に取り組むことなどを求める通知を出しました。その後、さまざまな説明がありましたが、われわれ教育者側はすれば「役に立たないことはやらなくていいということか」と理解しました。もう『源氏物語』は読まなくていいのかと。実際にいろいろな大学でそうした学部が縮小され、代わりに求められるようになったのが「役に立つ」実学です。いまならITが人気なので、教員として雇われるのはITの専門家ばかり。でも、5年、10年後はどうでしょう? ITがもてはやされるのは、おそらく一時ですよね。それなのにそうしたことに飛びついて、教員養成系と人文・社会科学系の学部を縮小したらどうなるのか。「その能力」しかない人たちは、時代の変化について行けるのか。
──流行の最先端を学ぶのは悪いことではありませんが、そのような学部をなくすことで、弊害があり ますよね。おそらく。
梶取:大学は本来、いろんな学びの場です。大学でも役に立たないような研究はあるのです。でも実はその、「一見役に立たない」研究はすごく大事なのです。
ノーベル賞を取る方たちにしても、ノーベル賞を取るために研究してきたわけではない。いい意味でのオタクで研究が好きで好きで仕方ない。結果としてノーベル賞が取れたにすぎないのです。
ノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進さんが著書で「自分と同じように研究をしている人たちはいたけれど、自分が賞を取れたのは運が良かったからだ」という趣旨のことを書かれていました。これは、研究というものは方向が違っていたらそのまま続けていても結果にはつながらないものの、研究を始めた時点では成否が分からないんです。年月が経ってから「これはダメだ」と分かることも多々ある。でもそれは運なのだというわけです。
──一方で今は、「中学受験で“実績”のある学校に入る」とか、オリンピックなどでも「金メダルを取る」といったことが目標化されやすくなってもいます。
梶取:賞を取るためにとか、「〇〇のために」と目的が設定されてしまうことには違和感があります。五輪にはさまざまな競技がありますが、その代表選手たちの目標が「金メダルを取ること」になってしまっていると、選手たちの先行きが案じられます。競技を通して自分を高めていき、自分にはこんな可能性があるんだと感じている選手たちは、その先にいい人生があるでしょう。でも、賞や金メダルを取るためだけとなると、その目的が果たせたとたん、何もなくなってしまいます。あるいは、果たせないことで、「その先の生き方」にたどりつけなくなる。
──社会全体にそうした風潮があるように感じます。
梶取:社会の考え方として、成果を上げることがいいことで、何の成果も上がらないものはダメだという風潮は確かにありますね。
私自身は、将棋の羽生善治さんが好きなのですが、彼は他の人が言うほどタイトルにこだわっていないんですよね。彼は勝とうと思って将棋を指していない。しかも若手と対戦するときに、わざわざ若手の得意形に飛び込みます。目先の一勝を取りに行くならもっと勝てるはずなのに、彼の目的は勝つことではなく、最先端の研究をしている若手からもっと深く学ぶことなので、そうするのです。その姿勢が素晴らしいと思います。
教育はもちろんのこと、世の中の風潮が彼の考え方に近づけばいいと思いますが、世界的に見ても、そうはなっていないんですよね。
──言語教育も見直しが必要そうですね。
梶取:アジア人が堪能に英語を話すのは当然のことで、それは母語で書かれた優れた教科書がない国も珍しくなく、エリートになるためには英語が使えなければならないという環境があるからです。そういう環境と日本を比較して、英語教育を何とかしなければならないと騒いだり、日本人の英語はダメだと悲観したりするのはおかしい話です。現状の小学校英語を教科化するという発想は、流ちょうに話せればいい、読んだり書いたりするより現地で交渉ができるほうがいいというもので、母語で発想し、それを多言語に置き換えて自分を伝えるということが抜けています。まずは母語で論理的に考えることが先だと思います。
英語教育における「英語4技能(聞く、話す、読む、書く)」はもちろん大事な能力です。しかし、「話せないコンプレックス」の強い日本の大人たちが考えるような、読む力と書く力より話せることが優先という風潮は、今後は意味を失っていくでしょう。なにしろ自動翻訳機が高機能化していますから。それよりは、母語である日本語でいろんなことを考えられて、それを言語化していくこと、そしてそれを英語で説明するとなった時に初めて必要になるんです。
言葉にしても、各国の言葉でしか表現できないこともあるわけです。今はインターネットの影響で、英語が世界の共通言語になっていますが、その国の文化・思想はその言語ができないと深いところは理解出来ません。いろんな国の言葉が分かるからこそ理解できる文化があるのです。だからこそ、コミュニケーションの手段ではなく、文化を知る手段として、より多くの言語が理解できたほうがいいですね。
グローバル=海外に出ることではない
──世界的にそうなのですね。各国が高め合うために競争するのではなく、ただ勝つために競争するような世の中というか……。
梶取:結局、内向き志向だと言えるでしょう。いろんな各国のリーダーたちが、自国の繁栄を優先するがゆえに、排他的になって、ある特定の民族を排除しようとすることさえある。それが私たちの日常にも潜んでいます。
今ではさまざまな国の方々が飲食店などで働いています。その中でそれぞれの文化の違いから様々なトラブルもあるはずです。グローバル化というのであれば異文化に対する敬意がなければいけません。しかし私たちからみて理解できないこと、非常識なことがあったときに、私たちはそれに対し、敬意を払っているでしょうか。自分たちがやりたくないことを他の国の人に任せ、自分は手を汚さずに生きている。そのようなことはないでしょうか。これは私自身も含めての問いかけです。
そういう差別感・優越感が、この日本社会にもあるということを理解していないと、グローバルの意味をはき違えてしまいかねません。
──グローバルと言うと、海外で仕事を得て活躍して……と思う層は多そうです。
梶取:そもそも海外に出ていくことがグローバルという意味ではありません。日本国内でもいろんな場所で、いろんな国や地域で生まれ育った、違う考えを持つ人たちが集まって暮らしていますよね。その中でどうやってうまく生きていくかということこそが、グローバルなのです。
育った環境、価値観が異なる中で生きていくのは簡単なことではありません。家族というコミュニティの最小単位の中でも、感じることがあるでしょう。口で言うほど簡単ではないのがグローバルなのです。そもそも今、グローバルについて騒いでいるのは日本くらいのもので、海外ではさまざまな国の人たちが共存しています。
考えておきたいことは、各国のリーダー達が内向き思考、自国第一主義に陥っています。これはグローバルと反対の思考です。私達が考えなければいけないことは、そのような内向き思考が私達にもあり、そのことを認めた上でグローバルをどう考えるかだと思います。
──先生のご専門は音楽ですが、国ごとに特徴は違うのでしょうか。
梶取ベートーヴェンはドイツ人、ドビュッシーはフランス人ですが、彼らはそれぞれの言葉を話していたからこそ、素晴らしい作品を生み出したのです。これは歌曲だけでなく言葉を伴わない器楽曲だったとしても、その国のいろんな背景があるからああいう音楽ができてくるのです。ですからこれから先、ますます文化・思想を理解するためには、英語に限らずいろんな国の言葉ができたほうがいいんです。
小さなこと、どうでもいいことに感動したい
──それこそ、多様性を学ぶためにも言語が必要ですね……。かといって、いま海外で活躍している人たちを見て、彼らをコピーしようという風潮が強まってきているのはどうなのでしょうか。
梶取:真似をするのは大事ですし、高度経済成長時代まではそれでよかったと思います。明治時代になり国が急速に変化する際は、集団である程度鍛えていくしかありませんでしたから。それができたからこそ日本は繁栄したのだと思っています。
その後、日本はアメリカを目標にしてきたのだと思います。「追いつき、追い越せ」の時代ではトップダウンで上司が言うことを部下はそのままやればよかったのですが、今は社会も変わりました。技術力では日本がアメリカをしのいでいる部分がたくさんあると思います。追いついてしまっていますよね。そのような今、社会全体は目指すべき目標を失い、その不透明感が子どもたちへの教育に現れてしまっているのです。
今の子どもたちには、「バラ色の人生」が想像できません。中高生も「僕たちは何をすればいいのだろう」と不安を口にします。大人が方向を示していないのですから当然ですよね。
経済的成長という目標を失った今、社会は、何か別のものを目指さなければいけないのです。中高一貫校からエリートを目指して大企業に入っても終身雇用も保障されていないどころか、入社した大企業が30年、40年後に存続している保障もないようなこの世の中で、生き抜いていかなければならないのですから。
そこで必要になるのが、一人一人、自分はこれが大好きだという「好きなもの」と、これなら他の人に負けないという「自信」なのです。そして、その「好きなこと」と「自信」を持ち続けることです。それが「一人一人の充実感」につながっていきます。
──ITに強いとか、英語が話せるといった「技術」ではなく、それぞれの人が夢中になれるものを持つ必要があるのですね。
梶取:そのために、教育に何が必要か、何をすればいいのかは残念ながら私も分かりません。ただ土壌をつくるのは教育関係者だけではなく、大人全員が考えなければならない課題だとはいえるでしょう。
子どもたちに安心な土壌を与えて、どんな種をまき、芽が出るか分からない中、出てきた芽を育て、伸ばせるようにするしかないのです。そして「他者と比較」するのではなく「昨日の自分と今日の自分で何が違ったのか」の比較を重ねていくことで、子ども自身が伸びていく。
この部分の価値観を変えて、昨日の自分より今日の自分はここが違う。どんなことでもいいんです。朝起きて、外の景色が清々しい、雨上がりの空気が気持ちいいなど小さなことで十分なのです。小さなこと、どうでもいいことに感動したいですね。
プロフィール

梶取弘昌(かじとり・ひろまさ)
1952年東京都出身。1971年武蔵高等学校卒業。東京藝術大学声楽科卒業。1977年武蔵高等学校中学校講師。1988年武蔵高等学校中学校教諭。2006年武蔵高等学校中学教頭。2011年4月武蔵高等学校中学校の13代校長に就任(~2019年3月)。現在は東京私学教育研究所の特別調査研究会『学校づくり研究会』委員長、武蔵高等学校中学校芸術科講師を務める。声楽家としても演奏活動を行っている。専門はドイツリートだが、現在ではポピュラー、ミュージカルなど幅広く演奏している。また楊名時太極拳を学んでいて現在は準師範、師範をめざして修行中。自宅近くに畑を借り野菜をつくっている。また生徒と一緒に稲作にも挑戦。「土づくり」が作物にとって重要であるように、教育においても「土壌づくり」が最も大切であると感じている。