
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に聞く 「目指したい20年後の教育」
第1回:「短期促成栽培」型ではない、これからの教育とは
梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に 「目指したい20年後の教育」を伺いました。
「何をする」か決められない子どもたち、教育にも要因
ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)梶取先生が学び、教鞭を取ってきた武蔵高等学校中学校は子どもたちの自主性を育む校風で知られています。
梶取弘昌氏(以下、敬称略):建学の精神『武蔵の三理想』では「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「世界に雄飛するにたえる人物」「自ら調べ自ら考える力ある人物」とありますが、私自身、教育とは学生時代にとどまらず、社会人になってからの人生を、自立して生きていく力を育てるものだと考えています。
──今は情報過多の傾向からか、親が先回りして与えすぎ、子どもたちが「自分で決めて行動する」力が育ちにくいように思えます。積極性を高めるために、親はどうしたらいいのでしょうか?特に母親は、口を出し過ぎ、甘やかしすぎなのでしょうか。
梶取:長い時間を共に過ごすことの多いお母さんたちが、子どもに細々(こまごま)と口を出してしまうのはある程度、仕方がありません。私のような年長者でも、家に帰ればよく妻に叱られます(笑)。家庭・社会生活を送るうえで 妻から夫へ、母から子へと細かく指示をする機会はあるものです。
ただ大人同士ならそれを「受け流す」こともできますが、それは力関係が対等だからです。親子となると、食事の世話から日常の世話、金銭的援助など、子どもは親の力がなければ生きていけないので、子どもが親に依存するのは当然のこと。
特に小さい頃は、母親にべったりになる家庭も多いでしょう。でも私は、それを悪いことだと思いませんし、むしろ思い切り甘えさせてあげたほうがいい。一人前な口をきいても、まだまだ子ども。十分な愛情を受けることほど、教育において重要なことはないんですよ。
──母親の過干渉で子どもを委縮させることにはなりませんか。
梶取:お母様たちが自分の子どもが気になるのは当たり前のことではないでしょうか。むしろ、子どもたちから「これをやりたい」という言葉や感情が出てきにくいのは、家庭の問題というよりは社会の課題。子どもたちに対して「あれをしなさい」「これをしなさい」という教育上の指導が多すぎて、「お腹がいっぱい」の状態なのです。
──確かに今の子どもたちは英語だ、プログラミングだと「やらなければならないこと」を与えられ過ぎているかもしれません。
梶取:今の教育の問題というのは、大人が仕切り過ぎていることでしょう。塾も学校も、「これをやったらどうか」と子にも親にも過剰なほど提案する。
そもそも教員は基本的に子どもが好きで教えるのが好きな人が多いので、教え過ぎてしまう傾向があります。国が関わっている日本の学習指導要領にしても、どうもやり過ぎ・お節介傾向になってしまう要因となっています。
それでいて、国家予算における日本の教育費はとても低い。先進国の中で、ほぼ最低レベルといえ、教育に十分なお金をかけることができていません。そのことが教育の自由を奪う要因にもなっています。
わが子だけでなく、子どもたちは社会の財物(たからもの)
──自由が奪われることで、どの学校でも同じようなカリキュラムが用意され、個性のない、与えられる一方の教育が施されている可能性があるのでしょうか。
梶取:そうですね。本来、教育はもっと自由であるべきです。そのためには米国のような寄付文化も必要になってくるかと思います。
社会全体が、子どもは天からの「授かり物」という意識を持って、自分の子どもだけでなく「自分たちの子ども」を育てていくという考えを持たなければ、20年先に必要な教育を十分に受けさせることは不可能なのではないかと思っています。
──現状は逆行しているようにも見えますね。「わが子かわいさ」でとにかく「良い中高一貫校」に入れるために、小学校低学年のうちから進学塾に通わせているようにも思えます。
梶取:自分の子どもがかわいいのは当たり前で、それ自体が良くないということではないんです。ただ昔から言われてきたように、「学校・家庭・地域が一体となって教育に取り組む社会」を目指していく時期に来たのかなと思います。
自分たちの近くにいる子どもたちは、自分たちの財物(たからもの)なのです。
ところが、社会全体が「短期促成栽培」を求めるようになってきているがために、数値目標ばかりに注目が集まるようになっているのです。
「短期促成栽培」を脱却し、学校は数字ではなく個性をウリに
──例えば、中高一貫校の場合は東京大学に合格した生徒の人数が50人──といったことですよね。
梶取:そうですね。人を育てるという面で教育を考えると中高一貫校での6年はとても短いです。その間に「成果」を出そうとすると、結局は大学入試に絞られ「合格者数」になりがちです。あるいはスポーツでどのような成績を残しているか。それは割と、学校が宣伝しやすい「数字」ですし、保護者も判断しやすいですよね。
でも、本来教育はそんなものではなく、30年、40年経った時に、ここで学んでよかったと思われることのほうが大切です。ある大学の入学者が50人だったと言っても、本来その大学を選び、受験し、合格するまでには1人ひとりにストーリーがあり、「こういう指導をしたから50人もの合格者を出せた」というエビデンスがあるわけではありません。「Evidence- Based Education」(エビデンスに基づく教育)ということが言われていますが、教育実践をデータで実証的に裏づけることだけでいいのでしょうか。そこに「教育とは何か」という問いかけがないと子どもたちはただのモルモットになってしまいます。
──保護者の側も、分かりやすい数字に惑わされてはいけないですね。
梶取:合格者数が減ったら、その学校に魅力を感じないのか、ということですね。
どの学校でも多かれ少なかれ受験指導、グローバル、ICTを目玉にしていて、ある意味没個性になってしまってはいます。本来は各学校ともとても良い学校で、悪い学校などないくらいです。でも現状では個性がないので選びようがない。だからこそ毎年の合格者数が重視され、それに向かった教育が 施されてしまう。
今後は各学校がもっと自信を持って、「自分の学校はこういう教育をしている」と言えるようになるといいと思います。個性の部分を主張して、そこで評価されて選ばれるようにしていくことが、今後の課題かと思います。
プロフィール

梶取弘昌(かじとり・ひろまさ)
1952年東京都出身。1971年武蔵高等学校卒業。東京藝術大学声楽科卒業。1977年武蔵高等学校中学校講師。1988年武蔵高等学校中学校教諭。2006年武蔵高等学校中学教頭。2011年4月武蔵高等学校中学校の13代校長に就任(~2019年3月)。現在は東京私学教育研究所の特別調査研究会『学校づくり研究会』委員長、武蔵高等学校中学校芸術科講師を務める。声楽家としても演奏活動を行っている。専門はドイツリートだが、現在ではポピュラー、ミュージカルなど幅広く演奏している。また楊名時太極拳を学んでいて現在は準師範、師範をめざして修行中。自宅近くに畑を借り野菜をつくっている。また生徒と一緒に稲作にも挑戦。「土づくり」が作物にとって重要であるように、教育においても「土壌づくり」が最も大切であると感じている。